プロローグ

――とある学者が癌の特効薬を開発した。
その薬を癌患者3万2097人に対し使用したところ、ステージ0の患者からステージIVまで進行している患者まで、全ての患者が完治するという臨床結果が出るという、これまでの癌の治療をひっくり返すようなものだった。
世界は彼を称賛した。
現代で最も有名な病気で、かつ完治が難しいものに対しての対症療法ではない対抗手段を得たのだ。
その薬はたちまち世界へ広がり、癌に絶望していた患者たちを数え切れないほど救った。
彼は世界の英雄になった。
しかし、彼は忽然と姿を消す。
その頃から何かがおかしくなり始めた。
彼の薬を服用した者たちが次々と異変を起こしたのだ。
いきなり激昂する者。人が変わったかのように我が儘になった者。そしてその変化は加速し始めた。
そう、坂を転げ落ちた者が、自分自身では止まれず加速することしか出来ないように。

   ◇

そもそも癌とは何なのか。
ヒトの身体は数十兆個の細胞からなっている。これらの細胞は、正常な状態では細胞数をほぼ一定に保つため、分裂・増殖しすぎないような制御機構が働いている。
それに対して癌は、生体の細胞の遺伝子に異常がおきて、正常なコントロールを受け付けなくなり自律的に増殖するようになったものである。
彼の薬はそれを抑えるものであったのだ。
ただ、水を遮る壁は、ある一定量の許容量を超えた場合、決壊する。
まさにそれが彼の薬でも起こったのだ。
抑えていた水のように溜まりに溜まった変化は身体に対して急激な変化をもたらした。
細胞の急激な分裂による、運動能力の向上。それに脳の処理が追いつかずオーバーヒートしてしまうことによる、理性を司る前頭連合野の機能低下、意識は一番頑丈な脳幹や小脳の影響を強く受けるようになる。するとどうなるか。
人間の本能が理性を上回るのだ。
理性はどんどん低下し、生存本能ばかりが強くなる。
一度そうなってしまったら後は落ちるだけ。
どんな聖人であろうとも獣のようになった。
だが、外見上はほとんど人間と変わらない。
そうなると周りにいる家族などはどう行動するか。情に縛られて、彼らに寄り添おうとするのだ。
だが、彼らとて普通の人間だ。ストレスなどにより身体を壊すものも少なくなかった。
また、薬の影響は薬を使った者だけに留まらなかった。
細胞分裂により向上した顎の力で噛まれ、傷ができる。その傷口から侵入した唾液の中の成分により、彼らに噛まれたものは10日ほどで彼らと同じくなってしまうのだ。それに対抗する薬も開発されたようだが、開発されるのが遅すぎた。開発された頃には、彼らはネズミ講式に、爆発的にその数を増やしていた。
さらに、その生産は非常に難しいらしく、需要が供給を大きく上回っていたのだ。
そして、完全に彼らと同じくなってしまうと、その薬はもう効かない。
そのことも世界を崩壊へと導く要素の一つとなった。
世界は加速度的に荒廃し、人が人を殺すのも当たり前になってしまった。
そして獣のようになってしまった人々を、理性を保った人類と区別するために「ゾンビ」と呼ぶことになった。
生きながら死んでいる者。生きた屍。
彼らは正しく「ゾンビ」であった。

   ◇

ゾンビ化は、その外見の変化の少なさ・初期症状が似ていることから認知症と間違われ、発見が非常に遅れた。
人々が気付き始めた時には時はすでに遅かった。
国家は死に物狂いでその対応をし始めたが、症状が進行した患者の増加が圧倒的に早く、瞬く間に国家活動は停止状態、当然のごとくインフラも停止した。
テレビ、自動車、飛行機、電話、コンピュータなど、ほぼあらゆるテクノロジーが機能を停止し、それに伴い、食料や水の供給もほぼ停止してしまった。復旧の目処が全く立たないまま社会は荒廃し、もはや国どころか、地域規模での活動さえ崩壊してしまっていた。
特効薬の発表から3年経った頃には、まるでこの世に秩序などなく、比較的「模範的」な生活をしているといえるものでさえ、殺人などは日常茶飯事であった。男は労働力を、女は花を売り生活をしていたが、世はまさに弱肉強食の時代であった。しかし、一対一では効率が悪く、弱者は死んでいくのみであった。支配されるだけでは生きていけないと、各地域で武装による戦争、支配が起きた。
10年たった今、ある程度の秩序と呼べるであろうものが出来上がってきていた。ここ日本では、北海道・東北・関東・中部地方を支配する「東倭共和国」、近畿・中国地方を支配する「華京」、四国地方を支配する「予名国」、九州及び沖縄を支配する「紫州連合」の4つの軍閥により分断支配・統治されていた。しかし、それは支配されていた側が支配する側に回ったに過ぎず、ある程度、政府に近いものはできていたが、その支配体制は前近代的なものであった。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2014年10月02日 02:03