第十話「死闘」

脚本:高橋ナツコ/絵コンテ:川口敬一郎/演出:有江勇樹/作画監督:阿部智之、鈴木美音識、小池恵

関ヶ原の地に突如として現れた本能寺。
第六天魔王・織田信長の復活を目論む天海の野望。
そして、それを阻止せんと戦場に駆け付ける孫市と慶次達。
一方、政宗と幸村も、この関ヶ原の決戦を正しき姿の戻す為、本能寺へと向かう。
人智を超えた異形のモノのただ中で、お市の姿に変化が起こる。
果たして、そこに現れるのは……!?(アニメ公式サイトより引用)



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・以下アニメの疑問点を紹介


+  大魔の手を操る天海
 大魔の手を操る天海
冒頭金吾が大魔の手に足を取られた後に光秀が「この人は良いのです」と大魔の手へ言えば
大魔の手は了承したかのように僅かに勢いを消している。
九話でも指摘されているが、大魔の手は本来市が呼び出しているものであり、光秀の攻撃手段ではない。

+  行方不明の武田軍
 行方不明の武田軍
第九話において三成に出撃を命じられた幸村と共に出陣したものと思われた武田軍だが
幸村が本能寺に向かう途中にも本能寺を立ち去った後にも周囲に武田兵の姿はない。
鬨の声を上げて駆け出したはずの彼らはいったどこへ消えてしまったのか。

なお本アニメにおいて足軽兵や騎馬兵が消失、又は同時間軸のカット毎に存在する兵の鎧の色が変更、又は
明らかな人数の誤差が有る場面が、多々存在する。

+  「敵は本能寺にあり!」
 「敵は本能寺にあり!」
雑賀孫市の台詞であるが、既に本能寺に居り、その本能寺の敷地内で言わせる演出の意図は不明である。
なお原作では光秀が発している言葉であり、史実的にも本能寺の変の際に明智光秀が発したとされる非常に有名な言葉である。

+  生き生きしている二人
 生き生きしている二人
政宗も幸村も、自分と対等に張り合う強い武将と戦うときは確かに喜色を浮かべるが、雑兵の
ゾンビがその相手とは思えない。
百歩譲って政宗は、雑兵戦でも余裕の不敵な笑みを見せる事も有るが、堅物の幸村は雑兵戦において
喜色を浮かべるようなキャラクターでは無いはずである。
佐助は生き生きしていると言うが、ゾンビを相手にいかにも楽しそうに笑っている幸村には、
特に強い違和感を覚える。
好敵手との共闘に対しての感情という見方も有るが、それにしてもおかしな演出である。

そしてこの時佐助は小十郎へ「お、堅物復活?」と茶化す様に言っている。
アニメ内において佐助が小十郎と接するのは上田城の政宗乱心時、茶屋の件の二度であるが、佐助にはその時の
小十郎が堅物では無くどのように映っていたのか謎である。
原作とは程遠いシナリオであり小十郎のキャラクター性も失われている様な演出では有ったが
上田城では少なからず最終的には刀を振りかざす政宗を止め、形としては諌めている。
茶屋においても別段堅物からかけ離れた様な演出はされていない(茶をいれたりと妙な行動はしていたが)
まるで伊達主従の原作からかけ離れた過去の演出を知っているかのような口振りである。
(アニメ内にて真田忍隊と思わしき忍が市の様子を偵察し報告している演出は有るが、奥州又は
 伊達主従に関して忍を放っている演出は一切無い)

+  市の命を使って信長を復活させる
 市の命を使って信長を復活させる
原作においては市に血を流させる事によって信長を復活させるという演出はされるが、実際には
どのように復活しているのかは謎である。しかし市の命を使う訳では無い。
そして六魔(信長が現世へ帰参した際に従えさせている焦土の王)が市の背後に居るが、原作では
そのような演出は一切無い。

+  第六天魔王お市
 第六天魔王お市
原作においては織田軍残党から「第五天魔王」と称され、過去ナンバリングにおいても信長自身より
「第五天魔王」と言われており、第六天魔王とは言われておらず、市自身も自称した事は無い。
なお信長復活では無く市が第六天魔王となるという演出は、原作には無い。
何よりこの状況が、信長が憑依したのか市が唐突に暴走したのか、一体全体市に何が起こっているのか
判別し辛い演出となっている。
そもそもにして織田界隈の設定は空洞化しており、原作をプレイしていなければ全く意味が分からない演出と言える。
(原作をプレイしていても首を捻る演出ばかりでは有るが)
六魔の存在も新規視聴者にとっては意味不明のものだろう。

そして市は信長復活の際、「余は第六天魔王、お市」と名乗っている。
他者からは「お市」と呼ばれるが、原作の市の一人称は「市」であり「お市」と自称した事は無い。

+  「もう失うものなど何もない」
 「もう失うものなど何もない」
原作3では織田軍は残党を残し壊滅し、市の夫である長政も亡き者となっている。
だが、アニメ内において織田軍に関わる者達の説明や描写は、これまでの回にほとんど存在しない。
第一話ナレーションにて光秀が信長を討ち取ったという説明位であり、長政の説明すらされていなかった。
(市が項目台詞を発した直後まつの説教にて長政の存在を思い出した演出がされる為、この時点での失ったものには該当しないと思われる)
にも関わらず「もう失うもの等何も無い」という台詞。新規視聴者でなくとも意味が分からない演出と言える。
寧ろ、織田家(信長と市)の仲が良好であったと誤解を生みそうでもある。
なお第七話において鶴姫に蘭丸を重ねる演出が有るが、こちらもアニメ内において一切説明も演出も無い状態での
突然の蘭丸(名前のみ)登場の為、蘭丸がこのアニメ内での市にとってどのような存在であるのか全く不明である。
市が何を失ったのか、真相は謎となっている。

+  突然始まるまつの説教
 突然始まるまつの説教
原作では市の身を案じているまつ(前田家)だが、アニメ内においてそのような描写は第八話において
「これは織田家に連なった者としての責任です」という台詞のみである(第八話「独断で重要な方針を打ち出すまつ」項目参照)
この台詞のみでは前田家と織田家の関係はさっぱり分からない。
浅井長政もこの十話が初登場であり、市とまつとの関係性、市と長政の関係性も分からないままに
まつが説教をしだし、呆気にとられるばかりである。
そもそも放映されている過去の回においても言える事だが、前提や伏線等が全くない状態で「話が始まる前に
終了する」といった唐突な演出の為、新規視聴者にとっては意味の分からない状態になっていると思われる。
そしてまつが叱責とも取れる言葉を市へ向けるのだが、市は過去前田家が仕えていた織田信長の妹君である。
しかし同等の立場、又は低い立場の者へ使うような言葉をまつが所々使用している事は、ある意味まつの
キャラクター性を壊してしまっているとも言える。
元々まつは武家の妻として丁寧な言葉遣いをしており、ステージ中の台詞においても丁寧かつ遜ったような
言い回しの台詞となっている。

+  唐突過ぎる浅井長政の登場(回想)
 唐突過ぎる浅井長政の登場(回想)
アニメにおいてはこの十話まで長政の存在を匂わせる演出は無かったが、上記まつの説教から突然
白馬に相乗りする回想が差し込まれ、新規視聴者層には全く意味の分からない演出になっていると言える。
原作においてはナンバリングを重ねる事で市の境遇や現状を理解出来る状態となっているが
説明や伏線が一切無いアニメにおいては、説明不足の唐突過ぎる演出としか言い様がない。
そして原作では市がこうもあっさり長政を思い出すという演出も勿論無く、ここまで無邪気に笑う市にも
非常に強い違和感を感じる。



+  冷静な孫市
 冷静な孫市
過去の回において原作と乖離した激昂する孫市として演出されてきたが、十話にて
それまでの激昂は一体なんだったのか、憤りはするものの至って冷静な孫市の演出となっており原作とは真逆である。
あれは市であって信長では無いから、という見方も出来るが、孫市自身が「あれは第六天魔王だ」と
発言している。

+  演出の不自然さ
 演出の不自然さ
六魔と対峙している時、六魔は攻撃はするものの暴れている訳では無い。にも関わらず慶次が突然
六魔を羽交い締めにして孫市へ撃てと言い放つ。
この演出の必要性が感じられず、違和感しか残らない。

そして、孫市に自分ごと撃ち抜くように促してもいる慶次だが、そもそもここまでの銃撃が効いているのか表面上では
全く分からない上、六魔はろくに防御しようともせず魔の手すら庇う素振りを見せない。そのような六魔に、慶次のこの行動は
どんな意味があったのか疑問が残る。
更に六魔の弱点が発覚した訳でも六魔が弱った描写がされるでもなく、孫市自身も固有技、固有奥義、バサラ技を
使用している素振りも無くその様な演出も無く、孫市の通常攻撃(銃弾一発)で六魔が消え去る展開も強引で有り疑問の残る演出と言える。



+  口調のおかしい面々
 口調のおかしい面々
幸村に関しては過去の回において指摘は何度もされているが、まつの言葉回しにも違和感が有り
小十郎の政宗へ対する一人称が「私」というのにも違和感を拭えない回となっている。
(3宴までは政宗へ対する小十郎の一人称は「この小十郎」等、自身の名を使っている)

+  突然現れるかすが
 突然現れるかすが
過去の回にて大魔の手に掴まって市と共に移動している状態だったかすがだが、九話、十話中盤まで
どこにも姿は見当たらなかった。にも関わらず突然気絶した状態で現れるという謎な演出がされている。
そしてこの際に佐助が「約束通り助けに来たぜ」と発言しているが、かすが救出の為に佐助が何かしら
しているという描写は全く無い。ただ近くに現れた為に起こしに行った、程度である。
何より「約束通り」と佐助は言っているが、第七話において「何があっても必ず助ける。約束だ」という言葉は
佐助の独白の形でぼそりと呟かれた様な台詞であり、かすがと約束を交わした訳では無い。
そしてこの時のかすがの態度にも違和感が有る。
気絶していた状態から意識を取り戻した際「私が眠るのは謙信様の腕の中だけだ」と発している事
そして、そのまま大人しく佐助に抱き起こされた状態で居る事に違和感を覚える。
その後、慶次と孫市のシーンへと変わるが、佐助とかすがと同じく突然のラブコメとも呼べる演出に
唐突感と違和感の多い演出となっている。


+  あのお茶屋での約束
 あのお茶屋での約束
一見おかしいとは思えないかもしれない幸村の「あのお茶屋での約束、某の胸に刻んでいるでござる」という台詞だが
「お」茶屋の場合、現在では京都などの花街で芸妓を呼んで客に飲食をさせる店の事を指す意味が強い。
戦国時代という括りであるならば問題無いかもしれないが、それでもわざわざ「お」をつける意味が分からない。

+  成長の早い謎の草
 成長の早い謎の草
本能寺消滅後、亀裂を挟んで政宗と幸村が言葉を交わすのだが、そのシーンの直後に亀裂の底には双葉の演出。
そしてあっという間にそれが成長しているが、花が咲くわけでも無く草のような物体に育つという謎の演出がされる。
後の伏線とも考えられるが、亀裂に生える意味が分からない。


+  声を発している様な演出がされる風魔小太郎
 声を発している様な演出がされる風魔小太郎
官兵衛の探す鍵の持ち主が小太郎では無かったと鶴姫の説明が入った後、鶴姫が上空を指して
「ああ!あそこです!」と言い、直後に「ん?」といった声が挟まれているが、この時の「ん?」の声と小太郎が
上空を見たタイミングが同時に有り、あたかも小太郎が声を発している様な演出となってしまっている。
加えて、この「ん?」の後のカットにて官兵衛が「んんっ?!」と驚いている演出がされる為、余計に謎の声は
官兵衛では無く小太郎の声なのではないか、という疑惑が持ち上がっている。
その為、小太郎は声を発さないキャラクターであるが、新規視聴者にとって誤解されかねない演出と言える。
(EDのキャストには小太郎の名は無く、真偽は不明である)

+  黒田官兵衛の鍵
 黒田官兵衛の鍵
原作において鍵は刑部が当初持っており、刑部→三成→最上の超真空流星隼号へと鍵が移動するという
演出がなされている。しかしアニメにおいては唐突に現れたカラスが何故か鍵を持っていたという演出に
変えられてしまっている。最上がアニメに登場していない以上超真空流星隼号が出ない事は仕方ないが
余りにも前提を欠いている為に違和感は拭えない。
勿論大砲で鳥を追うという演出は原作には無い。




+  風魔小太郎の役目
 風魔小太郎の役目
第九話において家康より場の撹乱を命じられ出陣した風魔だが、九話、十話において撹乱する素振りは一切無い。
ただ人気の無い場所で戦場を傍観し、鶴姫と官兵衛のやり取りを眺めた後に、追いかけてくる鶴姫から逃れるような
誘導するかのような行動を取るのみである。
ナレーションでは天下分け目と銘打っている関ヶ原だが、東西で総大将(又は刑部)の命に従っているのは島津位では
ないだろうか(幸村に関しては家康と戦いその後本陣にも戦場にも戻らず敵本陣にて傍観)
一体総大将とは何なのか、指揮とは何なのか、そして関ヶ原とは一体何なのだろうかと首を捻る演出ばかりである。

+  忌呪 毒塵針
 忌呪 毒塵針
第九話では謀反を起こした金吾に「おのれ、三成にこれ以上の裏切りを与えるか! 呪ってくれるわ」と怒りを見せ、
ひとり出撃してそのまま金吾を追うのかと思いきや、刑部が立ち塞がったのは無関係な伊達主従だった。
金吾を追い、その道中で三成に仇なす者としてターゲットを伊達主従に変更したとも取れるが、まるでスタンバイしていた様な
演出に違和感を覚える。
そしてこの時「忌呪 毒塵針」の様な地面に針らしきものを打ち込むが、原作とは違い怪しい紫の霧を吐いただけで特に何の効果も無い様子。
原作においての「忌呪 毒塵針」は針が打ち込まれた周囲に毒薬の霧が噴霧され、効果範囲内では体力ゲージが減っていく仕様となっている。
効果を無くすのならば、毒塵針の演出をする必要性が有ったのか疑問である。

+  虎の跡目争い
 虎の跡目争い
原作においては幸村と家康が対峙するルートが有るが、アニメにおいては前提となる対峙理由が
「この戦いで家康殿を越えてみせる事がお館様に報いる事になる」という幸村の一方通行な理由しか
提示されていない上、前提も何も無い為に何をもってして虎の跡目争いとなったのか全くもって謎となっている。
このシーンの元となっている原作ルートにおいて、苦悩し悩み続ける幸村は謙信や島津等と言葉を交わし、
そして家康と対峙する事で己の何たるかを知り思い出し、家康に「虎の目」と言わしめるのだが、状況も行程も
何もかもが違う為に、アニメでは原作シーンをぶつ切りにして切り貼りしただけのような印象を受ける。
更に家康が幸村へ対し「随分ともがき足掻き立ち向かったのだな」と発するが、アニメ内で幸村が苦悩する描写は
原作に比べ随分軽い為、家康の台詞は何とも空々しくなってしまっている。
(詳しい原作ルートは徳川家康、真田幸村のカテゴリ参照)

+  「だが貴殿のしている事は、絆を断ち切っているように見え申す」
 「だが貴殿のしている事は、絆を断ち切っているように見え申す」
家康との対峙中に幸村が発した台詞であるが、その理由が信玄と謙信が幾度も刃を交えているからという
意味不明のものとなっている。
そもそも「している事」と現在進行形で言っているが、現在家康がしている事は関ヶ原であり、西軍に
属してその関ヶ原へ挑んでいる幸村が言った所で何の意味も持たないのではないだろうか。
秀吉を討った事に対してならば、原作において幸村は謀反を起こした光秀に関し、謀反自体は許し難い行為だが
裏切られる方にも非は有るといった旨の発言をするキャラクターだったはずである。
それ以外に関してならば市を誘拐した事を指している可能性も有るが(そもそも原作にそのような演出は無いが)
アニメ内ではあくまでも市を預かっているという体で家康はいる為、刑部の口車に乗った浅はかな考えとも言える。
それ以外だとしたら、家康は同盟勧誘の為に飛び回っているだけである。
結果、幸村が何に対して憤っているのか分からない演出となっている。
大体にして幸村の言葉では信玄と謙信、お互い討ち取る気が全く無い様に聞こえる。
お互い刃を交えてより強くなる為に戦をしているとでも言うのだろうか、有り得ない。
両軍互いの力が拮抗した末に勝負が付かないのであり、絆は有れどもその様な慣れ合いで戦をしているとは考えられない。

そして幸村がそう発した直後に家康はハッとなっているが、本来家康は絆で世をを治めるという事の
矛盾を十分承知しており、言い訳をせずに自身の進むべき道を進んでいるというキャラクターである。
その為、上記のような演出をする必要は全くないと言える。

+  頭突きをして寝転んで戦中に和解
 頭突きをして寝転んで戦中に和解
虎の跡目争いの項にて提示されているルートでも発せられた幸村の「例え日の本を半分貰い受けようとも
某の思いは変わらぬ」(原作では「日の本半分を頂こうとも、この幸村の意思は変わらぬ」)という台詞からの
一連の演出だが、原作とは前提も行程も状況も全てにおいて違っている上、アニメ過去の回においてそのような
やりとりが無かった為に、なぜ、どうして、と疑問しか残らないシーンとなってしまっている。
何より信玄の魂の話をしていた状況からどうして突然「日の本を半分貰う」という事になっているのか謎である。
原作ではこの台詞を幸村が発するのは、戦いの末に家康から「ワシに協力してくれないか」という旨の事を言われての
台詞である。
そしてアニメでは和解後、幸村は家康に本当の心と向き合う様に言うが、原作ルートにおいては幸村が家康から
自分にかえれと言われている。
(詳しい原作ルートは徳川家康、真田幸村のカテゴリ参照)

なお、アニメ内で家康に槍を両手で掴まれた事で、幸村は勢いをつけずに自身の体重を乗せたのみの頭突きを繰り出し
家康は倒れるという演出がされる。
だが家康には固有奥義「耐心磐石(タメ頭突き)」が有る為、この演出は違和感しか無い。勿論幸村に頭突き技は無い。
そして家康が槍を両手で止めた時、手甲に覆われていない部分で槍の刃を止めたにも関わらず、手には傷ひとつついていない。
原作慶次ルートにて喧嘩両成敗と家康、三成双方に慶次が頭突きをお見舞いし家康は痛がる素振りを見せるという演出は有る。
だが本アニメの様にひっくり返り倒れるという演出は決してない。




+  微動だにしない石田三成
 微動だにしない石田三成
過去アニメ回において
第三話「家康を切り刻むのはこの私だ!」
第七話「その罪深き頭を垂れて私に斬られる以外、この刃を収めることなどできぬ!」(対家康)
第九話「この私と家康の神聖なる戦(以下略)」
原作より家康への執着や復讐心といったものが希薄になってはいるものの、上記台詞により
胸中を垣間見る事は出来た。
だが、十話では幸村が家康と交戦するのを三成は静観しており、一体上記台詞は何だったのかと
思わざるをえない演出になってしまっている。これには非常に強い違和感を覚える。
原作の三成ならば「家康を殺すのは私だ!」と言い、割って入る勢いで走り出すのではないだろうか。
ストーリーの都合によりキャラクター性を捻じ曲げられているとも言える。
(十話、十一話における幸村対家康、政宗対三成の原作ストーリーの消化のため)

+  関ヶ原
 関ヶ原
この戦いにおいて既に大友軍は撤退、金吾も逃走、官兵衛は追走と、ことごとくキャラが戦線離脱している。
残された軍は戦っているものの、東軍西軍両大将の居る本陣へと戦闘描写無しで易々と敵将が辿り着いていたりと
ご都合主義の展開となっている事に違和感のオンパレードである。


最終更新:2014年10月10日 10:35