第十一話「審判」

脚本:渡邊大輔/絵コンテ:佐野隆史/演出:高林久弥、平林拓真/作画監督:滝口禎一、谷野美穂、小林利充/アクション監修:うつのみや理

ついに石田三成の前に立った伊達政宗。
対峙する片倉小十郎と大谷吉継。
毛利元就の前に追いつめられる長曾我部元親。
空中では、本多忠勝と島津義弘が戦っていた。
それぞれの戦いに、ついに終止符が打たれる。
今、己の全てを、この戦いに賭けた男達に下される審判の行方は!?
(アニメ公式サイトより引用)


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※このページでは検証目的で「戦国BASARA Judge End」(テレコム・アニメーションフィルム制作)の映像を一部引用しています。
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・以下アニメの疑問点を紹介


+  がらんどうな本陣
 がらんどうな本陣
東西両軍の本陣が一番手薄であり人が少ない。演出上だとしても有り得ない。



+  唐突な原作シーンのねじ込み
 唐突な原作シーンのねじ込み
一話から十一話全般に言える事だが、過去一話から十話までオリジナル色強く原作のままという
演出はほぼ無かった。
(有ったとしても原作とは違った方向性にねじ曲げられていた為に原作のままという訳では無い)
だが十一話にして前後無視の原作シーンのオンパレードである。
しかし過去オリジナル色が強く、原作とはかけ離れたキャラクター性、ストーリー性に
なっており、何よりキャラのバックボーンの描写が無く、まるでダイジェストの様な内容。
そこに来て十一話で原作のストーリー(台詞)を唐突にねじ込んだ演出。
上記の通り今更原作シーンをねじこんだ所で意味不明の演出となり、違和感が強い。
「入れ替えられたキャラクター」項目とは別に、元親vs元就であっても、政宗vs三成であっても
それまでの行程や積み重ねや物語が一切無い状態であり、原作のキャラクター性が崩壊している状態での
原作シーンのねじ込みによるやりとりは、最早滑稽な演出とさえ言える。

+  「Go to hell」
 「Go to hell」
原作にも政宗が三成と対峙した際に「Go to hell」と言っているが、原作では抜刀して
その刀身を下に向けての「Go to hell」である。
だがアニメにおいては親指を下にするジェスチャーでの直接的な「Go to hell」であり、
何故そのような演出にしたのか理解に苦しむ。
原作台本全集には(政宗、刀を握って刃を下に向け、地面を指す。つまり、親指を下に突きつけるポーズ)
と記されている。
さらに技を出した時のように「Go to hell」とでかでかと書かれた文字で画面は埋め尽くされる。
演出の意図が全く分からない。



+  IG版を明らかに意識している演出
 IG版を明らかに意識している演出
この検証wikiはIG版との比較をする場では無いが、明らかに意識されていると思われる演出が多い為
十一話において項目を増やす事とする(十話においてもIG版が意識されていたと指摘されている箇所は有る)
まずは政宗と三成が西軍本陣にて交戦を始めた所、引き画となり山頂付近で爆発、その後爆風が周囲に吹き荒れ
合戦場に居た足軽達が巻き込まれるシーンが有るが、IG版において一期第一話の政宗と幸村が邂逅し交戦した際の
演出と余りに似ている(クオリティに関しては言及せず)
そして毛利の日輪鏡の変形後はIG版二期においての天陽の墜のミニチュア版のような様相となっている。
IGのオリジナル要素をアニメ開始時では尽く排除していたにも関わらず、特に中盤以降(※)から方向性の変更なのか
IG版に寄せてきているのではという声があがっている。

(※)
1話において秀吉vs家康での戦闘シーンは比較的派手(建物含めた一帯崩壊)であったが、政宗vs三成、小十郎vs三成は
固有技も画面に出る文字に潰され、まるでリアル寄りに演出されているような血飛沫が上がる戦闘シーンであった。
それ以降の戦闘でもBASARAらしいとされるド派手なアクションも無く鍔迫り合いの様な戦闘シーンが続く。
しかし6話において政宗vs家康の戦闘で、突然今までの演出を引っくり返すような地面が抉れ風が吹き荒ぶような演出がされ
IG版の演出に寄せているのではという声が多かった。




+  入れ替えられたキャラクター
 入れ替えられたキャラクター
刑部と小十郎との交戦時に交わされる言葉は、本来原作では刑部と元就とが交わす言葉である。
途中までほぼそのままとも言って良い台詞の流れになっているが、アニメ内において刑部と小十郎が顔を合わす場面はおろか
刑部に関して小十郎が何かしら情報を集め話題にしていた事は無い。
にも関わらず
片倉「等しき不幸だと?」
刑部「ああ、この世全てに等しき不幸よ!」
片倉「俺にもか!」
刑部「主もよ!」
片倉「てめえもか!」
刑部「我もよ」
片倉「政宗様にも」
刑部「独眼竜にも」
片倉「石田にも!」
刑部「三成もっ……!?」
刑部「三成にはこれ以上の不幸は与えさせはせぬ!」
片倉「他人を騙す事は出来ても、己の心を騙す事は出来ねえようだな。
   大谷、今のてめえは誰よりも優しい男だ」
と、つい先程まで「この世全てに等しき不幸よ!」と言っていた人となりを知らぬ相手に「優しい男だ」と言うのは明らかに
不自然であると言える。
刑部が西軍の軍師である事を知っていたとしても、三成との関係性さえも小十郎が知っている事に違和感しかない。

JE全ての回で言える事だが、原作にはそれぞれのルートやストーリーが有りバックボーンがしっかりしているが
アニメではそれらが一切無く説明も伏線も何も無い状態の為に、取ってつけただけのツギハギシーンとなってしまっている。
その為、新規視聴者だけでなく原作を知っていたとしても、意味の分からない演出となってしまっていると言える。
更に前提も何も無い為に、同じ様な台詞やシーンの一部等を持って来たとしても、全く違う印象を受け意味が分からなくなっている。
だがそれ以前にこの一連の流れはキャラクターが入れ替わっている為、印象が違う所の話では無い。

+  本多忠勝と島津義弘の空中戦
 本多忠勝と島津義弘の空中戦
島津からの攻撃により前面に攻撃を受ける忠勝だが、何故か背後のバーニア部分が壊れ落下する。
だが、今までの回において一度も原作のようにバーニアの部分が開き火を吹き飛ぶという描写は無く
バーニアの存在は無かったような演出が続いていたにも関わらず、今さらバーニア部分が
壊れて落下というのには違和感が有り過ぎる。
そしてなぜか島津を庇う忠勝。
アニメ内において島津と忠勝の因縁の様なものはほぼ説明されておらず、説明されていたとしても意味不明なのだが
わざわざ島津を忠勝が庇うという演出の意図が分からなくなっている。

なお、それまでの二人の戦いの描写は下降している島津の高度に合わせて忠勝は戦っている。自由に空を飛べる忠勝が
その利点を生かさずに交戦している事に強い違和感を覚える。
島津においては下降し続け、当たり前だが自由に空を飛べる訳では無い。だが最後の一撃時、空中で踏み込んでいる。
空中で踏み込めるのならば下降する必要は有ったのだろうか。
何より第九話において、数に勝る西軍の包囲を突破するために忠勝は出撃しているはずだ。
本来ならこの勝負を受けて立つ必要もなく、己が任務を遂行するならば有利な上空に留まって相手を牽制するのが妥当だろう。
大局を揺るがしかねない忠勝の判断に、ひたすら首を捻るしかない。





+  大喧嘩のけじめ
 大喧嘩のけじめ
政宗が三成と手合わせの如く交戦した後に
「アンタの命なんざ興味はねえ、オレはオレのけじめをつけただけだ。End of judgement、
オレとアンタの審判は下った。だがな石田、アンタが日の本を巻き込んだ大喧嘩のけじめは
アンタ自身がきっちりつけな」
と発しているが、関ヶ原は天下分け目の戦である筈が単なる喧嘩と評している事に激しく違和感を覚える。
原作において政宗は戦を「Party」と評する事は有るが、Party=喧嘩では無い。
何より東西両軍数多の武将や兵卒が動員されている合戦を、喧嘩と評するのは如何なものか。

そして政宗と三成の交戦と同様、幸村と家康の交戦においても私怨の稽古試合のように敵大将を討ち取るでも無く
終了している。足軽等は命を落としている演出が数多くされているにも関わらず、東西大将及び各軍大将は
敵方の士気や戦意を削ぎ制圧するでも無く敵側と慣れ合っているような演出に、どこにも天下分け目を
感じる事は出来ない。

加え、幸村に至っては敵側(東軍)の本陣に居座り続けるという、意味の分からない状況となっている。

+  気付く三成
 気付く三成
政宗との交戦(決着)時、三成は政宗の言葉(上記大喧嘩のけじめ項目内の台詞)にハッとしているが
そもそも三成は家康を殺す為、家康との決着をつける為に関ヶ原において戦をしているはずである。
そして政宗の言葉が胸に響いたかのような演出になっているが、元来原作の三成ならば「黙れ!貴様の道理等不要だ!」
と叫びそうなものである。
原作において上記項目の台詞は無い。

この元となる原作シーンでは、最終的には虚脱状態のような足取りで去ってゆく三成に対し「地獄ってのは、死んでから
行く場所でもねえ」と政宗が言う演出になるのだが、アニメにおいては三成は怪我一つ無く元気であり、
過去アニメ回において秀吉に対する狂気じみた信奉心や、家康に対する憎悪怨恨の描写が限りなく薄くなっている為に
一連のシーンも薄っぺらい演出となってしまっている。
何よりアニメの政宗では、そのような言葉に全く重みを感じる事は出来ない。

+  「竜の右目が傍に居た事を思い出させてくれたんだからな」
 「竜の右目が傍に居た事を思い出させてくれたんだからな」
前回までに小十郎が政宗に対し何かしているとすれば「取り押さえろ!」と言い足軽に政宗を取り押さえさせ
自身の首と政宗の命が同等とでも言うように自身の首で謙信に見逃してくれる様みっともなく嘆願し、主に対して
突然暴行を働き幼名で呼び捨て、政宗に「手負いの右目は黙ってな」と言わしめたのがアニメ内の小十郎である。
そんなアニメ内の小十郎に対し、いつ政宗は右目が傍に居ると思ったのかは謎である。

+  「これからワシは、天下を欺く大罪人だ」(回想)
 「これからワシは、天下を欺く大罪人だ」(回想)
「忠勝……ワシがこの手で秀吉殿を殺した。この手で、力によってだ」
「この世に横たわるものは力……そう、秀吉殿、貴方は正しかった。
 人々は大きな力に包まれ、安心を得たい。ワシも力を求め、これまで信じてくれた多くの者を
 死地に送ってきた。
 だが、それじゃ駄目なんだ。そんな世の中が当たり前では、人が簡単に死にすぎる。
 だから、ワシはこの世全ての力を絆という衣で覆い隠す事を決めた。
 これからワシは、天下を欺く大罪人だ!」
秀吉を討った直後と思われる回想での家康の言葉である。
この台詞は舞台からの流用とされている。

すでに幾度も指摘されている事だが、元々家康は秀吉の天下を否定する立場であり、原作において
秀吉を信奉するような描写は無い。だがアニメ内において「秀吉公のつくる天下を信じている」
「秀吉公との絆を信じている」 加え上記の台詞といった様に、原作とは乖離した家康のキャラクター性が何度も
演出されている。その結果、上記の絆論である。
原作においては家康自身、己の掲げる絆に矛盾を感じてはいるが、否定はしていない。
そして上記過去回想においての家康の発言からは、力を否定しつつも絆自体もまやかしのように受け取れてしまう。
忠勝や三河武士との絆が無かった事にされている今アニメだが、それにしても有り得ない演出ではないだろうか。

だがそもそも「絆という衣で力を覆い隠す為に自身は天下を欺く大罪人である」という言葉の意味や真意を
読み解くのが非常に難しい台詞回しとなっていると言える。

+  背後の足軽達
 背後の足軽達
作画リピートで妙な動きをしている足軽達だが、徳川軍と豊臣(石田)軍のみで他の軍の兵は一人も見当たらない。
伊達軍は既に政宗と小十郎が馬に乗って帰り支度を済ませているような描写が挟まれる事から、伊達軍も
帰り支度をしているのではないかと思われるが、武田軍が一人も居ないのはおかしい。
(前回指摘されているが、小早川軍(兵は市に飲み込まれ実質一人の描写)は逃走、大友軍は戦線離脱している)


+  忠勝と刑部の謎の数珠
 忠勝と刑部の謎の数珠
忠勝が胸に袈裟懸けにしている数珠をもぎ取り、刑部は数珠を出し、その後両者の数珠が空を飛びぶつかり合い、
突然東西を結ぶトンネルが現れ中央にはドーム状のものが出来上がる。
まったくもって意味の分からない演出となっている。
そもそも刑部に関しては数珠が気絶した官兵衛を持ち上げて運んだりと、アニメでのこの演出も出来なくは無いと
思わせる要素が原作には有るには有るが、忠勝の数珠は原作においてこのような使われ方は一切していない。
そして刑部と三成の繋がりはアニメ内である程度演出されているが、忠勝と家康においては繋がりが垣間見える演出等
されておらず、家康の移動手段だと認識されてもおかしくない演出のされ方であり、突然十一話においてこのような
演出をされても違和感しかない。







最終更新:2014年10月03日 07:04