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「ご機嫌」に生きよう(提案)


なぜ「ご機嫌」か

 ご機嫌でいるのは難しい。人間なら嫌な事は常に起こるし、体調が悪い時だってある。そんなにいつも機嫌良くしてはいられない。そんなの当たり前だと思う。ところが、自分の上司や学校の先生が「不機嫌」に現れると本当に迷惑な気分になる。何しろ"その不機嫌の原因は(ほぼ)自分ではないから"だ。こうなると不機嫌な年上の人は「自分の問題を自分で解決できないまま」年下の前に現れていることになる。「年上のくせに」と、年下の人間は思うだろう。"自分よりも長く生きているくせに、自分のメンタルすらコントロールできないで、その不満をまだ未熟な者たちにぶち巻いている"のだからみっともない。こんな感じだろう。なぜ「ご機嫌」であるべきかというと、"ご機嫌な人とは「寛容で器が大きい人」"なので、言いにくい話やどうでもいい話をしやすいのだ。「これを言ったら切れるな」とか「不機嫌で何言っても怒られそう」と思われていたら、誰も話をして来なくなる。必然的に"情報弱者"、”関係弱者”となり、その人は時代に取り残されていく。部下の心情や人間関係も理解できないだけでなく、情報弱者に競争力はないので仕事の結果も出ない事になる。時代に取り残されているので、過去の成功体験だけで仕事を進めようとする。そしてそれは通用しないので更に不機嫌になり人は離れていく、という悪循環が待っているのだ。これは職場以外でも同じで、"不機嫌な親に子供は本当の事は言わない。不機嫌な先生に子供は本当の事は言わない。"すると問題は水面下で巨大化、凶悪化して行き、表面化した時には手遅れになっている。子供のイジメ、自殺などが大人の知らない所で進んで行く原因の1つは、器の小さい年上の人間の「不機嫌」のせいなのだ。"この国でははるか昔に「不機嫌な大人」に対してドアを閉じる、という若者が現れ、それは絶望的に世代を分離してしまっているのだ。" かつてこの国には"「わかりやすい不良」"という人たちがいた。特に80年代の「不良」はわかりやすくて、自分達を「大人」や「つまらない社会人」とは違う「反抗する子供」と主張して踏ん張っていた。この時代のドラマでは大人と子供、不良と真面目と構造がシンプルだった。おそらくはその前の世代が「体制」と「反体制」に分かれていた構造だったところから、"局地的なもの"に変わったのだろう。政治や社会に楯突くの事の無力感から「身近な大人」に楯突くようになっていったわけだ。その代表が暴走族で、彼らは社会を変えようなどとは思っていなかった。ただ「ムカつくから自由にやりたいんだ」という主張のみで存在をアピールしていたわけだ。ところが"90年代になると「不良」というのがわかりにくくなっていく。彼らは昔の「不良」のように大人とやり合うことはしない。ただ「スルー」するだけだ。つまり大人を相手にしていないのだ。つまり"子供は大人を「いないもの」として切り捨てた"わけだ。そんな子供を理解しようと大人達は必死になったが、あらゆる事が空回りして、子供が唯一心を許す「大人」はガンダムやナウシカやエヴァンゲリオンの監督やアイドルのプロデューサー、アイドルや役者やミュージシャンや芸人など自分の好みの世界にいる大人と、スティーブ・ジョブズやホリエモンなどの「新世代のカリスマ」だけになった。"大人になってしまった「年上」の人間はこの事実を認識していないとすぐに「いないもの」としてスルーされてしまう。"ダダ流しの地上波テレビの時代が終わり、自分の好みのみで選択できるネットで彼らは生きている。気に入らない情報や人間は「ブロック」すれば、自分好みの快適空間は維持される。こうなるともう「年上の特権」が発動できる場は学校や職場の(金のために仕方なく存在している)縦関係のみになっていく。年下の人間はここで"「いかにつまらない年上との接触を無くせるか」"ということに力を尽くす。ブロックをしながらブロックをしてないフリをするのだ。そういう若者が「先輩ありがとうございます」とか言っていても、「早く帰れよ」と思っているのだ。特に"年上である事にあぐらをかいて「不機嫌」を投げ散らかしている人間は実際に会っていても「ブロック」されている"。それが現代だ。

 

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最終更新:2014年12月10日 16:37