第九話「関ヶ原」

脚本:高橋ナツコ/絵コンテ:佐野隆史/総作画監督:徳田夢之助、小林利充

かつて、徳川家康と石田三成が戦ったことで、生じた関ヶ原の巨大な亀裂。
時を経て、その亀裂は日ノ本の国を二分する象徴となった。
そして今、二人の約束の地で 天下をかけた戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。
ある者は、自らの人生を切り開く為、ある者は、宿命の好敵手と戦う為、ある者は復讐の為、ある者は絆の世を創るため……。
己のけじめをつける為、決戦に臨む一同。
(アニメ公式サイトより引用)


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※このページでは検証目的で「戦国BASARA Judge End」(テレコム・アニメーションフィルム制作)の映像を一部引用しています。
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・以下アニメの疑問点を紹介

+  私怨まみれの関ヶ原
 私怨まみれの関ヶ原
ナレーションでは「天下を賭けた戦いの火蓋が切られた」と説明がある。が西軍側で天下を念頭に
置いて戦う者はほぼ確認できない。
特に総大将の石田三成は8話の演説で徳川家康個人を倒した後のことは考えていないと宣言している。
何より前回まで各キャラの信条や信念に関する描写が薄く矛盾も多い為に、戦を勃発させた理由が曖昧で
ただの私闘としか見えなくなってしまっている。

そして関ヶ原の地にかつて家康と三成が作った巨大な亀裂が日ノ本を二分する象徴となったとナレーションの
説明が有る。
しかしそれが周知の事実と思えるような描写がなく、いささか唐突感を覚える表現である。
また原作においては。かの地が物理的に二分されているわけではなく、この二人の「約束の地」であるがために最終決戦の場に
選ばれた事実もない。さらに魔王信長復活も関ヶ原に移動させられ、東西軍その他勢力図も原作と異なるため
非常にごたつき、全容が掴めない状態の演出となってしまっている。

+  「まるでお館様に見えるぜ、大将」
 「まるでお館様に見えるぜ、大将」
西軍本陣にて幸村は「今は個々のことよりもこの大戦の流れに集中せねば」と自らを戒め、
それを信玄の様だと佐助に賛美される訳だが、その直後に「家康殿を超えることでお館様に報いる」
「道の先にいるのは政宗殿」と個人的な事情と思われる思考が前触れもなく現れ、直前のやりとりが
あっさりと無意味なものになってしまっている
そもそも家康が信玄を倒した訳でも無く、信玄は病気によって倒れたのであり、何故家康を超える事が
信玄に報いる事になるのかは謎であり、この一連の遣り取りやそれまでの行程から佐助が何をどう見て
どう思っての「まるでお館様に見せるぜ、大将」なのかも謎である。

+  本陣から動かない政宗
 本陣から動かない政宗
本陣に腰を据えて高みの見物状態の政宗に違和感しかない。
自軍兵を進軍させる様はアニメ過去回(初陣)の政宗を彷彿とさせ、原作においての伊達政宗は
どこにも居なくなっている。


+  合戦場に入り込む鶴姫
 合戦場に入り込む鶴姫
恋愛対象である宵闇の羽の人、風魔を追いかけて東軍陣内から合戦場へと入り込む等、非常に無謀な行動に出ている鶴姫。
7話の駿府城での行動といい、原作の鶴姫は世間知らずではあるものの、このようないささか厚顔無恥な恋愛脳ともとれるような
非常識なキャラとしては描かれていない。
また原作と違いアニメの家康と鶴姫の仲は決して良好とはいえないが、東軍本陣にいる徳川主従や伊達主従らが
完全な部外者であり、まだ年若い巫女でもある彼女が単独で自陣内に紛れ込み、さらに戦場のただ中に飛び出してゆくのを
黙って見過ごすことは考えられない。東軍本陣でいったい何が起きているのか。

+  日輪
 日輪
原作においての毛利軍兵器「照日大鏡」「明日大鏡」を模していると思われる「日輪」だが
前者は鏡面から光線が出るが、後者は鏡面から光線が出たと思えば上空から撃ち落とす光線に
なるという不思議仕様となっている。
そして中盤、対鶴姫に発動する際は鏡面からの直線描写となっている。



+  見逃される大友軍と酒井忠次
 見逃される大友軍と酒井忠次
関ヶ原での大友軍の登場箇所は亀裂を超えた東軍側で本陣にも近い。あの見晴らしのいい戦場でどうやって
見つかることなくそこまで近づけたのか、なぜそんな無茶な策が採られたのかも謎であるが、それ以上に奇妙なのは
敵陣内で完全に孤立状態にあるにもかかわらず全く攻撃されない点であろう。
その上己の職務を放り出し、さらには大友軍に付いていったらしい酒井に対しても東軍は何の反応も見せない。
(項目:戦の最中に人生相談とレボリューション後、大友軍が引き上げるのと同時に酒井の姿は消えている)
彼に従っていたと思われる兵らは指揮官なしで西軍に攻め入り、目の届く距離であろう本陣の者達も沈黙したままである。
特に家康とザビー教(現大友軍)は過去に敵対関係だったことがあり、また酒井は直前に信頼をこめて見送ったばかりの幼馴染であるだけに
まるで大友軍と酒井の存在が突然他のキャラには認識できなくなったとしか思えないような不可解な状況となっている。

そして宗麟が酒井の人生相談を聞き、肩を叩いて慰めた段階では二人以外の大友軍は消失している。
しかし酒井に洗礼名を与えたおよそ20秒後には、立花宗茂をはじめ大友軍一同が宗麟の背後にいつの間にか控えている。
このような演出には首を傾げるしかない。

+  口調のおかしい片倉小十郎
 口調のおかしい片倉小十郎
原作において政宗に対しては基本極丁寧な物言いであるが、他武将に対して謙る言葉を使う事は
無い。しかし本陣において家康へ
「敵包囲を突破するには戦力が合いませぬ。このままでは勢いは劣るかと」
と発言している。まるで家康の家臣の如く、である。

+  ジェットコースターカタパルトと人間大砲島津義弘
 ジェットコースターカタパルトと人間大砲島津義弘
カタパルトからの発進という演出は原作でもされているが、アニメ内において過去カタパルトを使用した
発進の演出はされておらず、島津の人間大砲との対比の為か唐突にジェットコースターのレールのような
カタパルトを使用した発進演出が唐突に加えられた事に違和感を感じる。
既に指摘されている事だが、忠勝の背中のバーニアは単なるリュックとなってしまっており、
動力は謎となっている。原作においては背中のバーニアを吹かして飛ぶ演出がされている。
そして忠勝が発進した後、島津は忠勝が空を制するのを制す為に、薩摩戦術の奥深さと称して砲身へとセットされ
人間大砲として発射されているが、原作にはそのような演出は勿論無い。BASARAらしいという声も有るが、アニメでの
演出は今までリアルに重きを置いているかのような演出だった為、人間大砲以外でも九話は非常に違和感を覚える。

なおカタパルトについてだが、走路が離陸速度の確保を阻害する様に湾曲した急勾配になっており、
あのような仕様では無駄に動力が必要になってしまう。普通に考えればあのような形状の走路は有り得ない。



+  戦の最中に人生相談とレボリューション
 戦の最中に人生相談とレボリューション
酒井忠次はアニメオリジナルキャラクターであり、その設定として徳川重臣であり信条は「信じる!」と
なっている。が、戦の真っ只中に敵軍大友宗麟に対して地べたに座り込んで愚痴を言い出すという
立場も信条も忘れ去られたような演出が取られている。
その後洗礼名「Revolution」として衣装チェンジが行われるのだが、上記と同じく何故今その演出をするのか
全くもって理解に苦しむという状況になってしまっている。

なお、洗礼名とチェンジ後の衣装は忠次に声をあてている西川貴教氏のいわゆる「中の人ネタ」となっている。
参考動画:ttps://www.youtube.com/watch?v=vBmU5v2EyxM(外部サイトになります)
(T.M.Revolution Official YouTube Channelより)




+  激昂する孫市
 激昂する孫市
前回同様、孫市のキャラクター性とはかけ離れた演出となっている。
(詳しくは八話「激昂する雑賀孫市」項を参照)

+  小早川軍鍋スライダー
 小早川軍鍋スライダー
原作において鍋が武器の金吾だが、小早川軍の兵が鍋を使う事は無い。だが、なぜか金吾と兵が
丘上から鍋を使って戦場へとスライダー移動している。


+  家康との戦いを神聖視する石田三成
 家康との戦いを神聖視する石田三成
戦場を荒らす天海らの報告を聞き、三成は「この私と家康との神聖な戦いすら冒涜するするつもりか!」と怒りを見せる。
しかしこの言い回しではまるで彼が家康と対等な戦を望んでいるかのようなである。
三成はこれまでのストーリーで家康を卑劣な裏切り者と見なし一方的な死を望んでいる。
ここでは「私の」神聖な戦いと呼ぶほうがまだふさわしいといえる。

+  合戦場の中央まで侵入するゾンビ軍と雑賀衆
 合戦場の中央まで侵入するゾンビ軍と雑賀衆
西軍兵の三成への報告によると、天海らと織田残党のゾンビ軍は襲撃を繰り返したのちに合戦場のほぼ中央まで入り込んだという。
ゾンビ軍の行軍速度はおせじにも速いとはいえず、また非常に目を引く一団である。
大戦のさなかの混乱は有るだろうが、そこまで侵入を許す東西両軍の伝達網はどうなっているのか謎である。

そして地上に大きな災厄をもたらす魔王復活を阻止するため脇目も振らず天海を狙う雑賀衆だが、
事の重大性を認識しておきながら孫市らは東西軍どちらにも一報を入れることすらしない。
戦場で自軍ではない兵などいつ攻撃されてもおかしくなく、そうなれば無駄に兵を死なす可能性もある。
孫市らは天海たちゾンビ軍よりも先に関ヶ原に到着したようであり、警告や協力を求めるなどその場で使者を立てることも出来たはず。
仇である信長の事となると動揺しやすいのは原作でも見られる傾向だが、アニメでは直情が過ぎると思われる。
また家康とのわだかまりを解いた慶次が東軍に助力を頼んでもおかしくない状況である。
後に幸村と政宗の二人が唐突に関ヶ原の戦いを神聖視し始めて自主的に事態の解決に乗り出すが、
同じ戦場で共通の敵がありながら意思の疎通がろくに行われないため、それぞれの事情でばらばら動いているといった印象が残る。

+  天海(明智光秀)をかばう大魔の手
 天海(明智光秀)をかばう大魔の手
原作においてそのような演出は無い。何より、原作3より魔の手は市の体から独立という形になっているが
あくまでも魔の手は市が呼び出している。にも関わらず、天海を庇い市を逆さ吊りにする等、見方によっては
あたかも魔の手の主が天海のようにも受け取る事が出来、違和感しかない。
原作市ステージにて大魔の手に逆さ吊りにされている演出が有るが、宙吊りから地面へと落ちた後に
大魔の手の小さい派生手が市を抱き起こす様な演出となっている。

+  パニックに陥る市
 パニックに陥る市
原作3宴において市は人を人として認識するのが難しい程の喪心状態に陥っているが、アニメにおいて
天海を見て直ぐに明智光秀だと察し、叫びだしパニックに陥っている。
原作において天海の事を光秀だと認識する素振りも有るが、名はノイズに掻き消され聞こえない演出となっている。
そして、織田信長を討ち取ったのは明智光秀だが、それに関して市がパニックに陥る理由が明確では無い。

+  部下になった真田幸村
 部下になった真田幸村
序盤において三成から出撃を指示されたものの「武田は未だ動かぬ!時を見定める」と発し
武田の大将としての立場を演出しているようであったが、終盤突如
「石田殿!某に出撃をお命じ下され!」
と、三成の配下の如くな言葉を連ねるという違和感を通り越して困惑する演出となっている。
勿論原作にそのような設定も演出も有るはずが無い。
既に指摘されているが、幸村は武田の大将であり豊臣(石田)軍は同盟相手、軍門に下った訳でも家臣になった訳でも無い。


最終更新:2014年10月02日 07:37